伊香保温泉と「香雲館」
柏井 壽
万葉集にもその名が歌われた伊香保温泉ですが、関西からは少し距離があるせいか、お訪ねになったかたはそう多くないかと思います。
おなじ群馬県には草津温泉という日本を代表する温泉地があって、その陰に隠れてしまいがちなのも惜しいことです。
しかしながら、一度でも伊香保温泉に行かれたなら、かならずその虜になります。お湯そのものもですが、なんと言っても情緒漂う温泉街の魅力は、他に比べるものがないと言ってもいいでしょう。
写真:伊香保温泉観光協会提供
温泉街という言葉の響きがいいですね。浴衣がけでそぞろ歩きして、外湯巡りをしたり、土産物屋を物色したり。むかしは射的などの遊戯場もよくありました。
温泉街というのは、ともすれば遊興色が強くなりがちなのですが、それを防ぐのが文人墨客の存在です。
たとえば伊豆の湯ヶ島温泉は、川端康成が逗留し小説を書いたことで知られていますし、山陰の城崎温泉は谷崎潤一郎の作品に登場することがよく知られています。
写真:伊香保温泉観光協会提供さて伊香保温泉。この湯町と縁の深い文人は実に多彩な顔触れです。
かの竹久夢二をはじめとして、夏目漱石、萩原朔太郎、徳富蘆花、野口雨情とそうそうたる面々に愛されたのが伊香保温泉です。
文人らがそぞろ歩いただろう道筋が、伊香保の象徴とも言える石段の道です。
365段と言いますから、けっこうな段数ですね。一度に昇りきろうとると息が切れてしまいます。
この石段の歴史は長く、四百年も前にこの基礎が築かれたと言いますから、そのころはどんな光景が広がっていたのか、想像するのも愉しいですね。
古くはこの石段街の両側に、大家と呼ばれる十二の宿が軒を連ねていたそうです。温泉宿を出ると、そこは石段街。なんとも情緒があっていいなぁ、と思いますが、今の時代には喧騒が少し気になりますね。
写真:伊香保温泉観光協会提供
石段街をぶらり歩きして、宿は閑静なところで静かにくつろぐ。そんな理想的な宿が石段街の東北方向へ500メートルほどの所、かみなり坂の中ほどにあります。
宿の名は『香雲館』。まるで城壁のような石積みの外観はお屋敷のように見え、ここが旅館だと気付かずに通り過ぎるひとも少なくありません。
写真:伊香保温泉 香雲館 玄関
一歩なかに入るとそこは非日常の世界。大きな檜の扉が音もなく開き、ホールへと進むとそこにはくつろぎの空間が広がっています。
部屋数はわずかに十室。それぞれに趣きや設えが異なりますが、どの客室にも内風呂と露天風呂が付いています。
写真:香雲館 お部屋一例(御簾の間)
もちろん大浴場も備えられていますから、いろんな趣向のお風呂をたんのうできます。むかしから伊香保の湯は、傷を治したり病を癒すのに絶大な効果があると言われています。閑静な宿でゆっくりと心と体を休めることができるのは温泉宿の醍醐味ですね。
写真:香雲館 あうるの湯
そしてこの宿の最大の特徴は心づくしの料理にあります。
吟味された食材を、熟達の料理人が調理した料理が、上品な器に盛られます。けっして華美に走ることなく、しかし贅を極めた料理の数々に舌鼓を打ち、美酒に酔ううち夜はしんしんと更けていきます。
満ち足りて床に就く。これぞ至福の時です。
旅情漂う石段の町 信州から上州・伊香保へ 春のノスタルジック紀行
写真:香雲館 料理(イメージ)
柏井 壽
作家・エッセイスト・日本味の宿 顧問
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1952年京都生まれ。
歯科医師でありながら、旅、食、宿、京都をテーマにした小説、エッセイを多数執筆。
著作の累計部数は、百万部を超える。代表作は「日本百名宿」、「鴨川食堂」など。