地名で愉しむ京都たび3
柏井 壽
地名で愉しむ京都旅3
京都でその場所を言い表すのに、町名や番地などではなく、通りの名前を使うことが一般的だと書いてきましたが、それは洛中とその近辺に限ったことで、しばしば町名を使うこともあります。
それはその町名が長い歴史を物語っていることで、住民が愛着を持っているからです。町名はただの記号ではない。それが京都の街なかにおける町の名前の大きな特色です。
今回は夏向きに、少し涼しくなる地名話をしましょう。観光客でにぎわう京の街には、もうひとつ別の顔があることを、町名が表しているのです。
たとえば、京都でもっとも多くの観光客を集めることで知られる『清水寺』のすぐ近くに轆轤町という地名があります。
『清水寺』のすぐ近くには、古くからたくさんの窯元があり、その焼物は『清水焼』、もしくは『京焼』と呼ばれ、京名物のひとつに数えられていますから、お買い求めになった方も少なくないでしょう。
轆轤というのは、焼物を作るのに使う道具ですから、それに因んで付けられた町名が轆轤町。なるほど、と誰もが納得しますね。
ところが実は、この轆轤町、元は別の町名だったのです。
今でこそその痕跡すら見当たりませんが、かつて『清水寺』の辺りは、鳥辺野と呼ばれる葬送の地でした。
今のように火葬する習慣がなかった時代は、土葬や風葬が当たり前でしたから、しかるべき場所に遺体を運ばなければいけません。洛中から少し外れた鳥辺野へ運んで行ったのです。平時なら無事に運べるのですが、疫病が蔓延したり、大火に遭ったりすると、おびただしい遺体が運ばれ、行列が渋滞するほどになったと言います。
そうなると横着な人は鳥辺野まで運ぶことをあきらめ、途中で遺体を置いて帰ってしまったのです。そんなわけで鳥辺野へ続く松原通近辺に遺体が散らばり、やがてそれは髑髏と化し、あちこちに転がることになりました。
そのことから髑髏町という地名が付けられたのですが、住民にとっては気持ちのいい話ではないので、近年になって髑髏を轆轤に変えて町名としたのです。お見事ですね。
雅な雰囲気が漂う京の都ですが、多くの人が集まって暮らすうちには、諍いも絶えず、大火に見舞われることも少なくありませんでした。また、昨今のコロナ禍に例を引くまでもなく、人口が多く、人の交流が盛んになると疫病も広く蔓延してしまい、多くの犠牲者が出ることになります。
その亡骸を運ぶ列や、行先を思い起こさせる地名や町名は、京都のそこかしこに今も残っています。
先の轆轤町、すなわち元の髑髏町の界隈は、あの世とこの世の境目だとされ、仏教の教えに基づく『六道の辻』と呼ばれています。
あの世で閻魔大王の助手を務めながら、昼間は役人として仕えていた小野篁は、すぐ近くにある『六堂珍皇寺』の井戸を伝って、あの世とこの世を行き来していたと言いますから、まさしくその境界なのでしょう。しかし今はそんな界隈も、『清水寺』へお参りする人たちが多く行き交い、そんな気配はみじんも感じられません。そこが京都という街の面白さであり、奥深さなのです。