「近江牛」
フードコラムニスト 門上 武司
我が国は明治時代になるまで、長い間肉食禁止の国であった。しかし、江戸時代後期には「養生薬」として近江牛は干し肉の形をとり彦根藩から将軍家に贈呈されたり、徳川家や松平家には味噌漬けとして進呈された記録が残っている。つまり食用の牛肉ではなく薬として扱われたのだ。牛肉の美味しさは理解されていたことになる。
近江牛は松坂牛、神戸牛と並んで日本三大和牛の一つ。歴史的には近江牛は四百年を超え、神戸の百三十年、松坂の百年位比べ歴史は圧倒的に近江が古い。それだけ牛と親しんできた期間が長い。江戸時代に献上するにも他の地域では成し得なかったのだ。
三十年近く前、そんな歴史を近江八幡にある精肉店で知り、そこが営むすき焼き店を取材したことがあった。仲居さんの流れるような手つきで供される近江牛の味わい。コクと旨みがありながら、食後のすっきり感に魅了されたのであった。その味をスタッフにも知ってもらいたいと、忘年会をここで行ったぐらいであった。その後も、少し贅沢をしたい時には、その店から近江牛を送ってもらっていた。
最近では、京都で近江牛を扱うステーキ店でその味わいの凄さに触れ、大きな感動を覚えた。「料理は結局材料です。ええ肉を仕入れることが何よりも大切。うちは、あの肉屋さんがないと商売ができません」と熱く語られた。シェフにお願いし、その精肉店を紹介してもらい、そこから牛肉を購入することになった。数年経過し、一度その精肉店を訪ねた。街場の精肉店の雰囲気が漂っていたが、色々話を聞いていると、兄弟で兄は精肉店、弟が牧場で近江牛を育てていることがわかった。生産から販売までを責任を持って商いをしているのだ。信頼が置ける存在だと感じたのであった。近江牛を購入したのは当然であったが、揚げたての近江牛のコロッケを買い、店頭ですぐに食べた。このふくよかな味わいとコロモのサクッとした感触は忘れることができない。
食材のことを一番熟知しているのは卓越した料理人である。その人に教えを乞うことが優れた食材に出会うポイントだと知った。
だから現在のところ、私が選ぶ牛肉は近江牛が多くなっているのだ。